ということで、子供の頃から代々の徳川将軍に興味を持って調べていたという歴女のあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、徳川秀忠の次男として生まれる
- 1-2、家光の乳母は春日局、小姓も大勢一緒に育つ
- 1-3、子供時代の家光は病気がち
- 1-4、両親の愛情が弟国松に集中、お家騒動勃発の危機に
- 2-1、元服して家光と名乗り、3年後には将軍を継ぎ結婚も
- 2-2、秀忠死去で家光の親政が開始
- 2-3、家光、重臣に恵まれる
- 2-4、家光、女性に興味を示さず、春日局が大奥を設立
- 3、家光の側室と子供たち
- 3-1、石田三成の曽孫に当たるお振の方
- 3-2、元尼僧の公家娘お万の方(永光院)
- 3-3、死罪人の娘お楽の方
- 3-4、おまさの方
- 3-5、京の町娘お夏の方
- 3-6、5代綱吉の母お玉の方(桂昌院)
- 4、家光の後継者たち
- 5、家光のエピソード
- 5-1、父秀忠より祖父家康を尊敬というか信仰
- 5-2、異母弟保科正之を信頼して重用
- 5-3、家光は武芸や能楽なども好んだ
- 5-4、伊達政宗を親父と呼ぶほど慕う
- 5-5、お福に春日局という敬称を後水尾天皇から賜る
- 6、家光、家康と共に日光に祀られる
- 長男相続の前例を作った家光
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。歴代の徳川将軍でも骨太で気難しそうなイメージの家光について、5分でわかるようまとめた。
1-1、徳川秀忠の次男として生まれる
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By 東京帝国大学編集 – 「歴史科教授用参考掛図 第五輯」より。個人蔵。, パブリック・ドメイン, Link
慶長9年7月17日(1604年8月12日)徳川家康の3男で後の2代将軍徳川秀忠と正室の江との間に生まれました。秀忠には夭折した生母不明の長男長丸がいますが、家光の幼名は竹千代、これは祖父家康の幼名で徳川宗家の嫡男に与えられるものです。
母江は浅井長政とお市の方の3女なので、もう一人の祖父は浅井長政、大伯父が織田信長ということに。
2歳下に国松後の忠長が生まれ、姉が長姉千姫を筆頭に4人、弟と妹がひとりずつ。大人になってから保科正之という庶弟が。
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1-2、家光の乳母は春日局、小姓も大勢一緒に育つ
嫡男竹千代の乳母は母江の希望で京都で募集し、応募してきたのが美濃の名門明智光秀の家来だった斎藤利三の娘で稲葉正成と結婚していたお福、後の春日局です。教養もあり家柄もいいということで採用。お福は夫と離婚、息子たちで後の稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利が .家光の乳兄弟、小姓となって一緒に育ち、小姓として他に後の老中松平信綱もいました。
1-3、子供時代の家光は病気がち
幼い頃の家光は病気がちで、吃音もあったよう、それに容姿もあまり可愛くなかったようですが、弟の国松は美形で利発な子だったので母の江は特に弟の国松を可愛がったということです。
想像するに、家光は徳川家康系の狸っぽいずんぐりむっくり、国松は母江似で美形の織田系遺伝子だったのかも。
1-4、両親の愛情が弟国松に集中、お家騒動勃発の危機に
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By 不明 – 『図説・江戸の人物254』 大信寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link
秀忠も江と一緒に国松のほうを可愛がったので、一説によると家光は絶望して自殺を図るまでに。これは家庭のなかの弟偏愛の問題ではなく、徳川宗家の跡取りとなれば大勢の家来たちもかかわって来るもの。秀忠夫妻の動向をみて、家来たちも状況判断して家光を軽く扱い、弟国松を重視するようになったのでしょう。下手をすればお家騒動になりかねません。
ということで、乳母の春日局が駿河の大御所家康に直訴、春日局は出過ぎたことをと叱責されましたが、事態を重く見た家康が突然江戸城を訪れて、竹千代を後継ぎとして遇し、国松の扱いをぞんざいにして、秀忠夫妻に孫たちの格の違いをきっちり示したことで、やっと家光の地位が安定したという話が伝説になっています。
このことは春日局の手柄として語り伝えられているものの、事実ではないという説と、春日局の乳母にしてはでしゃばりすぎ、じつは春日局が家光の実母じゃないか、いや家光は家康と春日局の子ではないかという説までもが。いずれにしても家光は凡庸とされる父秀忠よりさらに残念な存在とされた、いまいちの子供時代だったよう。
そして重要なことは、この家光と国松の事件後、徳川宗家では長男相続が確定したということでしょう。
2-1、元服して家光と名乗り、3年後には将軍を継ぎ結婚も
家光は元和6年(1620年)に16歳で元服、名乗りは金地院崇伝が選定し家光、そして従三位権大納言に。3年後の元和9年(1623年)に、父秀忠と共に上洛した家光は19歳で伏見城で将軍宣下を受け、将軍職を譲られました。秀忠は江戸城西の丸にいて、家康のときと同様に秀忠が亡くなるまで大御所として将軍家光との二元政治が行われました。そして公家の5摂家の鷹司家の孝子が江戸へ下って同年12月には正式にお輿入れ。ただし家光は最初から孝子を嫌って不仲、孝子は御台所とは呼ばれず、中之丸様として一生別居して過ごしたのでした。
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