今回は、徳川幕府の3代将軍家光を取り上げるぞ。自分のことを生まれながらの将軍と言って、親父の秀忠よりも祖父の家康を尊敬していたらしいが、本当はどういう人物だったのでしょう。

ということで、子供の頃から代々の徳川将軍に興味を持って調べていたという歴女のあんじぇりかと一緒に解説していきます。
BERJAYA

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。歴代の徳川将軍でも骨太で気難しそうなイメージの家光について、5分でわかるようまとめた。

1-1、徳川秀忠の次男として生まれる

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By 東京帝国大学編集 - 「歴史科教授用参考掛図 第五輯」より。個人蔵。, パブリック・ドメイン, Link

慶長9年7月17日(1604年8月12日)徳川家康の3男で後の2代将軍徳川秀忠と正室の江との間に生まれました。秀忠には夭折した生母不明の長男長丸がいますが、家光の幼名は竹千代、これは祖父家康の幼名で徳川宗家の嫡男に与えられるものです。
母江は浅井長政とお市の方の3女なので、もう一人の祖父は浅井長政、大伯父が織田信長ということに。
2歳下に国松後の忠長が生まれ、姉が長姉千姫を筆頭に4人、弟と妹がひとりずつ。大人になってから保科正之という庶弟が。

1-2、家光の乳母は春日局、小姓も大勢一緒に育つ

嫡男竹千代の乳母は母江の希望で京都で募集し、応募してきたのが美濃の名門明智光秀の家来だった斎藤利三の娘で稲葉正成と結婚していたお福、後の春日局です。教養もあり家柄もいいということで採用。お福は夫と離婚、息子たちで後の稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利が .家光の乳兄弟、小姓となって一緒に育ち、小姓として他に後の老中松平信綱もいました。

1-3、子供時代の家光は病気がち

幼い頃の家光は病気がちで、吃音もあったよう、それに容姿もあまり可愛くなかったようですが、弟の国松は美形で利発な子だったので母の江は特に弟の国松を可愛がったということです。

想像するに、家光は徳川家康系の狸っぽいずんぐりむっくり、国松は母江似で美形の織田系遺伝子だったのかも。

1-4、両親の愛情が弟国松に集中、お家騒動勃発の危機に

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By 不明 - 『図説・江戸の人物254』 大信寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

秀忠も江と一緒に国松のほうを可愛がったので、一説によると家光は絶望して自殺を図るまでに。これは家庭のなかの弟偏愛の問題ではなく、徳川宗家の跡取りとなれば大勢の家来たちもかかわって来るもの。秀忠夫妻の動向をみて、家来たちも状況判断して家光を軽く扱い、弟国松を重視するようになったのでしょう。下手をすればお家騒動になりかねません。

ということで、乳母の春日局が駿河の大御所家康に直訴、春日局は出過ぎたことをと叱責されましたが、事態を重く見た家康が突然江戸城を訪れて、竹千代を後継ぎとして遇し、国松の扱いをぞんざいにして、秀忠夫妻に孫たちの格の違いをきっちり示したことで、やっと家光の地位が安定したという話が伝説になっています。

このことは春日局の手柄として語り伝えられているものの、事実ではないという説と、春日局の乳母にしてはでしゃばりすぎ、じつは春日局が家光の実母じゃないか、いや家光は家康と春日局の子ではないかという説までもが。いずれにしても家光は凡庸とされる父秀忠よりさらに残念な存在とされた、いまいちの子供時代だったよう。
そして重要なことは、この家光と国松の事件後、徳川宗家では長男相続が確定したということでしょう。

2-1、元服して家光と名乗り、3年後には将軍を継ぎ結婚も

家光は元和6年(1620年)に16歳で元服、名乗りは金地院崇伝が選定し家光、そして従三位権大納言に。3年後の元和9年(1623年)に、父秀忠と共に上洛した家光は19歳で伏見城で将軍宣下を受け、将軍職を譲られました。秀忠は江戸城西の丸にいて、家康のときと同様に秀忠が亡くなるまで大御所として将軍家光との二元政治が行われました。そして公家の5摂家の鷹司家の孝子が江戸へ下って同年12月には正式にお輿入れ。ただし家光は最初から孝子を嫌って不仲、孝子は御台所とは呼ばれず、中之丸様として一生別居して過ごしたのでした。

\次のページで「2-2、秀忠死去で家光の親政が開始」を解説!/

2-2、秀忠死去で家光の親政が開始

BERJAYA

image by PIXTA / 45204542

寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると、いよいよ28歳の家光が将軍として独り立ちです。
まず外様大名を招集し、自分は生まれながらの将軍であると宣言、そして「大名は今後余に臣下の礼を取るべき。異論がある者はすぐさま領国に返り、戦の準備を始めろ」とまで。家光は加藤清正の息子忠広熊本52万石を改易したのを皮切りに秀忠より多くの大名を改易し、知行を親藩や譜代大名に分けたということ。
また幕政の中枢機関である老中、若年寄、奉行、大目付を制定し、将軍が最高権力者である幕府機構を確立。 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂で、大名に参勤交代を義務づける規定を追加。それに島原の乱の影響でキリシタン弾圧と対外貿易の管理と統制を強化、寛永18年(1641年)オランダ商館を出島に移転、貿易の管理統制を行い鎖国に突入。

島原の乱とは

島原はもとはキリシタン大名の有馬晴信の領地で、キリシタンを匿うなどの寛大な対応をしたため、キリシタン信仰の盛んな土地でしたが、有馬氏の後に領主となった松倉政重は、島原へ入ると新しい城を築城、その後江戸城の普請も負担したなどで年貢米の取り立てを強化、それに加えてキリシタンを弾圧、そして松倉政重から子の勝家の代になって、毎年天候不順で米の凶作が続いたために立て続けに飢饉に。こういう状態のなか、寛永14年10月25日(1637年12月11日)ある切っ掛けから農民たちの不満が爆発し代官を殺害。あちこちで一揆が起り島原藩だけでは収められない状態に拡大し、その後一揆勢は天草四郎と言う少年を奉じて原城に籠城。この籠城軍には弾圧されたキリシタンたちと、大名の改易が続いて巷に溢れかえっていた浪人たちで占められていました。最初、九州の大名諸侯軍の総大将として御書院番の板倉重昌の格が軽すぎて統制とれず難航、最後には松平信綱が登場し、兵糧攻めと総攻撃で寛永15年2月28日(1638年4月12日)やっと終結。籠城軍は皆殺し、松倉勝家は圧政の責任を取らされて斬首に。

2-3、家光、重臣に恵まれる

家光の時代にはほぼ江戸幕府の基盤が固まり、後々まで続く制度も確定。
それもこれも家臣が立派だったから。家光は「我が右手は忠勝、我が左手は信綱」と酒井忠勝や知恵伊豆と言われた松平信綱を全面的に信頼してお任せ。父秀忠の近習から仕え家康御落胤の噂もある大老土井利勝もいて、家光が何もしなくても彼らがすべてやってくれたと言っても過言ではないでしょう。剣道指南役で大目付の柳生宗矩、禅の道について語る沢庵和尚といったアドバイザーもいました。

尚、松平信綱、春日局、柳生宗矩は、共に家光を支えた「鼎の脚」と称されているとか。

2-4、家光、女性に興味を示さず、春日局が大奥を設立

前述のごとく、19歳で将軍になると同時に五摂家のお姫様孝子と結婚した家光ですが、最初から嫌ってしまい別居という事態に。家光は男色家、ゲイの疑い濃厚で若い頃はまったく女性に興味を示さなかったため、お世継ぎが出来ないと徳川宗家が絶える恐れを抱いた春日局は、あの手この手で女性を集め、ハーレムのような大奥を作り上げました。家光の好みのタイプはボーイッシュな女性だったよう、もう素性などめんどくさいことは関係ないとばかりに、なりふり構わず集めたので、以後、大奥ではどんな身分の女性でも、将軍の好みのタイプの美女ならば受け入れる体制になってしまったのでした。

3、家光の側室と子供たち

家光の子は1女5男(夭折2人)、側室は公家の娘、石田三成の曽孫、京都の八百屋の娘、なんと死罪人の娘まで、バラエティーに富んでいます。

3-1、石田三成の曽孫に当たるお振の方

長女千代姫を出産。
母は春日局の腹心である祖心尼の娘で父は蒲生家臣の岡重政の息子の岡吉右衛門。この岡吉右衛門の母はなんと石田三成の娘なので、お振は三成の曾孫。

千代姫は3歳で尾張家光友に嫁入りし綱誠らを出産。豪華な嫁入り道具は一度も使われず蔵で保存されていたが、今や国宝に。尾張徳川家には千代姫によって石田三成の血が入ったわけですね。

3-2、元尼僧の公家娘お万の方(永光院)

公家の六条有純の娘、伊勢慶光院の院主として寛永16年(1639年)に家光に謁見した時に家光が一目惚れして、春日局の指導で還俗して大奥入り。子供はないけれど、京都の公家の出で作法にも通じていたためか、春日局の死後の大奥で、家光が春日局と同様の取締まり役に任命。側室を辞してからも上臈として大奥の支配者として、第二の春日局と恐れられたということ。春日局の時代は質実剛健な武家風だった大奥をお万の方は華美で豪奢な京都の公家風に変えたそう。

尚、弟は戸田氏豊、京都から下って高家となって仕えました。

3-3、死罪人の娘お楽の方

長男4代将軍家綱を出産。
後に下級武士となった農民の青木三太郎利長の娘、または朝倉惣兵衛の娘と言う説も。お楽の方の父は江戸の旗本朝倉家に仕官するが、主君の金を使い込んで江戸追放され鹿麻村で蟄居。そして禁猟の鶴を撃って死罪となった人。

尚、お楽の方の弟の増山正利は、甥が将軍になったことで三河国西尾藩主2万石の大名に。

\次のページで「3-4、おまさの方」を解説!/

3-4、おまさの方

次男亀松(夭折)を出産。
尾張徳川家の付け家老成瀬隼人正の縁者とされ、春日局の部屋子。

3-5、京の町娘お夏の方

3男綱重 を出産。
父は京都の町人の弥市郎と言い、娘の夏が家光の子を出産したことで旗本4500石に出世、はじめ岡部八左衛門重家、のち藤枝重家と改名、尚、同じ京都出身のお玉の方のライバルだった。

綱重は家光の厄年の子であるせいで、家光姉の千姫天樹院の竹橋御殿で生まれ養育されました。後に甲府藩主となり、息子が6代将軍家宣に。

3-6、5代綱吉の母お玉の方(桂昌院)

4男5代将軍綱吉を出産。
実父は京都の八百屋、母が公家侍と再婚した縁で、公家のお万の方の部屋子募集に応じて大奥入りして、家光のお手付き女中に。尚、実家の本庄氏の兄や弟たちは、高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの小藩ながら大名に大出世。

お玉の出世から「玉の輿」という言葉が出来たという話

4、家光の後継者たち

家光の成人した3人の息子たちは、長男家綱が4代将軍、3男綱重は甲府藩主、4男綱吉は館林藩主に。将軍家綱の弟二人を、御両典(ごりょうてん)と称しました。御両典はともに25万石、位は正三位参議、甲府宰相、館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ家格。江戸定府で領地への参勤交代はなく、綱重は桜田御殿、綱吉は神田御殿、綱重の息子の綱豊は御浜御殿に居住。

家綱が後継ぎを残さずに亡くなった後、甲府綱重はそれ以前に亡くなっていたので4男の館林宰相綱吉が5代将軍に。綱吉も後継ぎがなく、3男綱重の息子の綱豊(徳川家宣)が6代目に。

5、家光のエピソード

家光にまつわる様々なエピソードをご紹介しましょう。

5-1、父秀忠より祖父家康を尊敬というか信仰

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By 狩野探幽 - 大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, Link

家光は病弱で3歳のときに大病にかかったが、健康オタクだった祖父家康の調薬で回復。以後も病になるたびに祖父家康の霊夢を見て回復したという話があるそう。弟を可愛がる父母をけん制し、家光を後継ぎにと態度で示してくれたのは祖父家康、それに家康の命日と家光の誕生日が同じ17日だということで、祖父家康の恩を意識していたらしい。

寛永13年(1636年)に東照宮を造営なった後、家光は日光社参を生涯のうちに10回行い、晩年になっても家光はたびたび祖父家康の夢を見たと狩野探幽に家康の肖像を何度も描かせたほど。「二世ごんげん(権現)、二世将軍」「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙の入った守り袋を肌身離さず身に着けていたということです。

5-2、異母弟保科正之を信頼して重用

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By ? - 土津神社, パブリック・ドメイン, Link

正室江を愛するあまりか恐妻家の故か、父秀忠は自分の乳母の腰元との間に出来た庶子正之を養子にやり、江が生存中は対面もせず、正之が18歳になって養父の跡を継いだ時にやっと対面したということ。そのうえに正之のことを家光にも弟の忠長らにも言い残さずにあの世へ。なので家光はまったく保科正之のことを知らなかったのですが、ある日お忍びで目黒に行き立ち寄ったお寺が保科家の菩提寺で、住職がこっそりと家光の耳に。

家光は驚いて正之と対面、大いに喜んで信州高遠3万石から山形20万石へ、さらにその後会津藩23万石を与えたほど。あの問題児忠長も、正之を気に入り葵紋の入った家康の遺品を与えて、松平への復姓を薦めたということ。
正之はたいへん有能な人物で、養父の育て方も良かったのか日陰の身を恨んだりせず、家光に家臣として尽くす誠実な人柄で、老中、大老として家光とその子の次代家綱を支え、幕末まで続く会津松平家の祖に。

\次のページで「5-3、家光は武芸や能楽なども好んだ」を解説!/

5-3、家光は武芸や能楽なども好んだ

家光は将軍になって以降も、遠乗りや諸大名の邸への御成など、外出が大好きで、夜な夜な市中に出て辻斬りをしたという話まである(男色の相手と密会していたらしい)ほど、お忍びで外出することも多かったよう。
また、柳生新陰流の柳生宗矩に師事し免許皆伝の腕前で、寛永御前試合や慶安御前試合などや武芸上覧などを主宰。家康や秀忠と同じく能が好きだったが、能役者の能楽を見る以外に、諸大名や家臣など素人に演じさせて面白がるちょっと変わった趣向も。

また墨絵などの趣味もあり、最近家光が描いたという何の動物かわからない、へたうまの墨絵も話題に

5-4、伊達政宗を親父と呼ぶほど慕う

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By 土佐光貞 - 東福寺塔中霊源院, パブリック・ドメイン, Link

寛永12年に家光が参勤交代制を強化し、今後は諸大名を家臣として遇すと宣言したとき、伊達政宗は真っ先に進み出て家光に、「上様の命に背く者は、それがしに討伐を仰せ付けあれ」と言ったために、他の大名たちは一言もなかったそう。そして家光は政宗のために護身用に10挺の火縄銃を与えたという話。戦国武将の生き残りで高齢になっても江戸参府を欠かさなかった政宗を伊達のおやじ殿と呼んで慕いまくり、色々な体験談や思い出の昔話をせがんだという。そして京都二条城へと参上する際に、御三家も許可されないという紫の馬の総を政宗に授与したり、政宗が病床についたときは医者を手配し、江戸中の寺社に祈祷まで行わせたうえ、亡くなる3日前には家光自らがお見舞いに。そして政宗が亡くなると、父秀忠が亡くなったときよりも嘆いたのでした。家光は自分と同じように、政宗も弟小次郎の方が母に可愛がられ争いになった話を聞いて親近感を持っていたのかも。

また同様に、関が原で西軍に加担して改易の後復帰した唯一の大名の立花宗茂も好きで、殿中での頭巾や杖の使用を認めるなど特別扱いをし、能、狂言、茶席など宴を催した際や、上洛、大坂行き、日光社参など、家光は宗茂を伴って行ったということです。

5-5、お福に春日局という敬称を後水尾天皇から賜る

家光は乳母お福に育てられて今日の自分があるということがわかっていたようで、お福の息子たちや孫たちまで大名にして重用しました。そしてお福に名誉を授けようとしてか、お福を家光の妹で後水尾天皇の中宮和子を通し、後水尾天皇に拝謁するために、京都御所に参内までさせたほど。

しかし格式の高い御所への参内に、将軍の乳母に過ぎない無位無官のお福(公家の三條西家の親戚であったので、妹分という肩書を使用)を参内させて天皇に拝謁と言うのは、相当強引なことであったそう。後水尾天皇はお福に緋の袴を許し、将軍の乳母に与えられる敬称である「春日局」を下賜したものの、紫衣事件以上に徳川幕府に侮辱されたという気持ちが強かったということ。

6、家光、家康と共に日光に祀られる

慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去。死因は脳卒中だったよう。享年48歳。この頃は殉死が行われていて、男色の相手だったと言われる堀田正盛や阿部重次らが殉死。遺骸は遺言により日光の輪王寺に埋葬され、翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営されました。

長男相続の前例を作った家光

子供の頃からぱっとせず、利発で美形の弟に出し抜かれるところを偉大な祖父に認められて3代将軍となった家光は、父よりも祖父を尊敬し崇拝していました。またもはや戦国時代ではない、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれる平和な時代にあって、伊達政宗や立花宗茂などの戦国生き残りの英雄を慕い、柳生宗矩に剣術指南を受けと、祖父家康の時代に憧れるような風もあったようです。自分は生まれながらの将軍であるという宣言は、一世一代の見栄を張ったような感じもしますが、ボロを出さずにやり遂げたのは家光を支えた春日局や松平信綱らの名臣あってこそ、そして徳川宗家の長男相続の前例を作ったことで、この後派手なお家騒動がなかったのも家光のおかげかもしれないですね。

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日本史歴史江戸時代

生まれながらの将軍と宣言した3代目将軍「徳川家光」を歴女がわかりやすく解説

今回は、徳川幕府の3代将軍家光を取り上げるぞ。自分のことを生まれながらの将軍と言って、親父の秀忠よりも祖父の家康を尊敬していたらしいが、本当はどういう人物だったのでしょう。

ということで、子供の頃から代々の徳川将軍に興味を持って調べていたという歴女のあんじぇりかと一緒に解説していきます。
BERJAYA

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。歴代の徳川将軍でも骨太で気難しそうなイメージの家光について、5分でわかるようまとめた。

1-1、徳川秀忠の次男として生まれる

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By 東京帝国大学編集 – 「歴史科教授用参考掛図 第五輯」より。個人蔵。, パブリック・ドメイン, Link

慶長9年7月17日(1604年8月12日)徳川家康の3男で後の2代将軍徳川秀忠と正室の江との間に生まれました。秀忠には夭折した生母不明の長男長丸がいますが、家光の幼名は竹千代、これは祖父家康の幼名で徳川宗家の嫡男に与えられるものです。
母江は浅井長政とお市の方の3女なので、もう一人の祖父は浅井長政、大伯父が織田信長ということに。
2歳下に国松後の忠長が生まれ、姉が長姉千姫を筆頭に4人、弟と妹がひとりずつ。大人になってから保科正之という庶弟が。

1-2、家光の乳母は春日局、小姓も大勢一緒に育つ

嫡男竹千代の乳母は母江の希望で京都で募集し、応募してきたのが美濃の名門明智光秀の家来だった斎藤利三の娘で稲葉正成と結婚していたお福、後の春日局です。教養もあり家柄もいいということで採用。お福は夫と離婚、息子たちで後の稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利が .家光の乳兄弟、小姓となって一緒に育ち、小姓として他に後の老中松平信綱もいました。

1-3、子供時代の家光は病気がち

幼い頃の家光は病気がちで、吃音もあったよう、それに容姿もあまり可愛くなかったようですが、弟の国松は美形で利発な子だったので母の江は特に弟の国松を可愛がったということです。

想像するに、家光は徳川家康系の狸っぽいずんぐりむっくり、国松は母江似で美形の織田系遺伝子だったのかも。

1-4、両親の愛情が弟国松に集中、お家騒動勃発の危機に

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By 不明 – 『図説・江戸の人物254』 大信寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

秀忠も江と一緒に国松のほうを可愛がったので、一説によると家光は絶望して自殺を図るまでに。これは家庭のなかの弟偏愛の問題ではなく、徳川宗家の跡取りとなれば大勢の家来たちもかかわって来るもの。秀忠夫妻の動向をみて、家来たちも状況判断して家光を軽く扱い、弟国松を重視するようになったのでしょう。下手をすればお家騒動になりかねません。

ということで、乳母の春日局が駿河の大御所家康に直訴、春日局は出過ぎたことをと叱責されましたが、事態を重く見た家康が突然江戸城を訪れて、竹千代を後継ぎとして遇し、国松の扱いをぞんざいにして、秀忠夫妻に孫たちの格の違いをきっちり示したことで、やっと家光の地位が安定したという話が伝説になっています。

このことは春日局の手柄として語り伝えられているものの、事実ではないという説と、春日局の乳母にしてはでしゃばりすぎ、じつは春日局が家光の実母じゃないか、いや家光は家康と春日局の子ではないかという説までもが。いずれにしても家光は凡庸とされる父秀忠よりさらに残念な存在とされた、いまいちの子供時代だったよう。
そして重要なことは、この家光と国松の事件後、徳川宗家では長男相続が確定したということでしょう。

2-1、元服して家光と名乗り、3年後には将軍を継ぎ結婚も

家光は元和6年(1620年)に16歳で元服、名乗りは金地院崇伝が選定し家光、そして従三位権大納言に。3年後の元和9年(1623年)に、父秀忠と共に上洛した家光は19歳で伏見城で将軍宣下を受け、将軍職を譲られました。秀忠は江戸城西の丸にいて、家康のときと同様に秀忠が亡くなるまで大御所として将軍家光との二元政治が行われました。そして公家の5摂家の鷹司家の孝子が江戸へ下って同年12月には正式にお輿入れ。ただし家光は最初から孝子を嫌って不仲、孝子は御台所とは呼ばれず、中之丸様として一生別居して過ごしたのでした。

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