今回はアレクサンデル6世を取り上げるぞ。ボルジア家出身のローマ教皇ですが、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
BERJAYA

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、アレクサンデル6世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、アレクサンデル6世はスペインの生まれ

アレクサンデル6世は1431年1月1日にスペインのバレンシアのハティバで誕生。父はホフレ・デ・ボルハ、母はイザベルで、5人兄弟の次男。本名はロデリク・ランソルで、母方の伯父アロンソ・デ・ボルハがローマ教皇カリストゥス3世となったため、母方の苗字のボルハに改名。イタリア語読みではロドリーゴ・ボルジア。

1-2、アレクサンデル6世、伯父の引き立てで出世

BERJAYA

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アレクサンデル6世は、ボローニャ大学で法学を学び、伯父アロンソに引き立てられて司教となったが、教皇カリストゥス3世となった伯父は、1456年に2人の甥の25歳のアレクサンデル6世と、姉カタリーナの息子ルイス・フアン・デ・ミーラを枢機卿に登用、ロドリーゴの兄ペドロ・ルイスを教会軍総司令官、スポレート公に任じるなど、民衆の怒りを買うほど露骨なスペイン系の縁故採用を行ったということ。

ネポティズム縁故主義とは
カトリックの聖職者は結婚も跡継ぎの子供も認められていないだけでなく、いかなる性的活動も慎むものとされているのですが、中世ヨーロッパはカトリック聖職者が様々な特権を持っていた時代。

特に司教や修道院長といった上級の聖職者は王侯貴族と変わらない権力を持つようになったため、親族の子供たちに様々な特典などを与えたり、実質的に後継者としたりが横行したということで、縁故主義(ネポティズム)と呼ばれるように。尚、イタリア語の「nipote」は甥や姪、孫という意味の単語だそう。

しかし公的には結婚、妻帯禁止のカトリック聖職者が密かに儲けた庶子を「甥」と偽り、ルネサンス期にはそれが公然と行われるように。その代表例がアレクサンデル6世の庶子たちだが、パウルス3世も14歳の実の孫アレッサンドロ・ファルネーゼを枢機卿に任命したなども。カトリック教会の縁故主義は1692年、教皇インノケンティウス12世が教皇勅書を発布し教皇が親族に財産、土地、利益を与えることの禁止を明文化するまで続いたそう。

1-3、アレクサンデル6世、5人の教皇に仕える

1458年6月、ナポリ王アルフォンソ5世が死亡、庶子フェルディナンドへのナポリ継承を認めなかったことで、ナポリをボルジア領にするのではないかとの噂が流れているなか、8月6日にカリストゥス3世が79歳で没。

ボルジア家に対するローマ市民の怒りが爆発して暴動が勃発、ボルジア家の教皇縁故者を始めとするスペイン人はローマを逃げ出し、アレクサンデル6世の兄ペドロ・ルイスは逃亡後急死。しかしアレクサンデル6世はローマへ引き返し、伯父カリストゥス3世の葬儀も行い、次の教皇ピウス2世を支持したため地位を保ち、教皇庁で勢力を固めたということ。

アレクサンデル6世は枢機卿として、教皇軍の指揮官、控訴院の院長、教会の長官代理に任命、教皇庁ナンバー2として、以後5人の教皇に仕えつつ、経験と富、人脈を形成することに。

\次のページで「2-1、アレクサンデル6世、買収でローマ教皇に選出」を解説!/

当時のイタリアの時代背景
アレクサンデル6世の時代である15世紀後半のイタリアは統一国家ではなく、476年の西ローマ帝国滅亡から北部は都市国家や公国が乱立。南部のナポリは当時はスペインの支配下にあり、1494年にはアラゴン家の王位が絶えたため、フランスのシャルル8世が王位継承権を主張してイタリア戦争が勃発。ローマ教皇とスペイン王フェルナンド5世らが結束、撤退させたが、1504年にもフェルナンド5世はフランス王ルイ12世と戦い、ナポリ王国を併合というように、フランスなどの外国勢力の干渉も日常茶飯事であったということ。

そしてローマ教皇は世襲ではないが、教皇領という広大な領土を持つ領主という立場で、政治的、外交的にほかのイタリアの公国、フランス、スペインなど外国の王権などとの対立、姻戚、同盟関係となったり、息子チェーザレが教皇軍を率いて、敵の侵入を防いだり侵略したりという軍事行動を行ったわけで、この時代のローマ教皇は宗教的指導者として以上に日本の戦国時代の領主のような立場だったといえるのでは。

2-1、アレクサンデル6世、買収でローマ教皇に選出

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Cristofano dell'Altissimo - http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

1492年、アレクサンデル6世が71歳のときに教皇インノケンティウス8世が没、教皇選出のコンクラーヴェが行われたが、これが教皇になる最後のチャンスとばかりに多くの枢機卿を買収、アスカニオ・スフォルツァ枢機卿、そしてジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)を押しのけて教皇に選出されたということ。それまでも教皇選挙の買収はあったが、アレクサンデル6世のコンクラーヴェでの贈収賄は有名で、三重冠を金で買ったことは公然の秘密に。

2-2、アレクサンデル6世の家族

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ジョン・コリア - Daily Telegraph, King Albert's Book (London, 1914), page 152. Scanned by Dave Pape., パブリック・ドメイン, リンクによる

アレクサンデル6世は聖職者ですが、この時代の申し子的に普通に愛人が何人もいたうえ、女遊びも大好きで女性にモテるタイプだったそう。

アレクサンデル6世の子供たちには、歴史に名を残さず平凡に暮らした母のわからない子供たちも数人いるが、1460年に出会った愛人ヴァノッツァ・カタネイとの間に生まれたチェーザレ、ファン、ルクレツィア、ホフレが悪名高きボルジア一族として名前を残すことに。

2-3、アレクサンデル6世、ネポティズムで身内を登用

アレクサンデル6世は、教皇就任後の初めの頃は、以前の教皇の治世とは対照的な教会法の厳密な遵守、教会統治の円滑な実施を徹底し、困窮していた財政立て直しのために、支出を切りつめて倹約、質素な生活を送ったため、財政は好転。

そして、16歳でピサ大学の学生だった息子のチェーザレをスペインのバレンシア大司教に取り立て、のちに枢機卿にし、従兄弟のジョバンニを枢機卿に任命、最終的にボルジア家の親族だけでも5人の枢機卿を任命し、多くの知人友人を取り立てたので問題視されたが、一方で有能な人物も同時に枢機卿に任命したためうやむやになったそう。また、他の2人の息子第2代ガンディア公ファンとホフレには、教皇領とナポリ王国領を割譲しようとしたため、問題に。

2-4、アレクサンドル6世 教皇子午線を設定

アレクサンデル6世は、1492年のコロンブスのインディアス(西インド諸島)への到達(新大陸発見)で始まった、スペインとポルトガルの海外領土「新世界」争奪戦を調停、1493年に植民地分界線としての教皇子午線を定めたということ。

最初はアレクサンデル6世の出身地スペインに有利に調停したことでポルトガルの反発を受けたため、翌年、両国が直接交渉してトルデシリャス条約が締結。
この条約で、西アフリカのセネガル沖のベルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)の海上の子午線に添った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが決定。

尚、アレクサンデル6世はヨーロッパ以外の地域へのキリスト教の布教について強い関心を持っていたが、征服論者ではなかったということで、ポルトガル人に対して原住民の同意を得てからの布教を指示した書簡が存在。

\次のページで「3-1、第一次イタリア戦争」を解説!/

3-1、第一次イタリア戦争

アレクサンデル6世は、ナポリ王フェルディナンド1世と激しく対立、フェルディナンド1世はアレクサンデル6世の仇敵のローヴェレ枢機卿を味方に引き入れる一方で、アレクサンデル6世は、反ナポリ王国同盟(サンマルコ同盟)を結成し、娘のルクレツィアをミラノのペーザロ公ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚させ、ガンディア公ファンはフェルディナンド王の一族の娘との結婚のためスペインへ送られ、末子のホフレをナポリ王太子アルフォンソの庶子サンチャと結婚させて同盟強化。

そしてローヴェレ枢機卿は暗殺をおそれ、自分の司教区のローマ南西オスティアに立てこもると、フェルディナンド1世はローヴェレ枢機卿を支援、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノと手を組んだそう。しかしスペインに支援を頼んだが得られず。そして1494年にフェルディナンド1世が亡くなり、息子のアルフォンソ2世がナポリ王を継ぐと、フランス王シャルル8世がナポリ王の継承権を主張したが、アレクサンデル6世は認めなかったため、シャルル8世は軍を派遣して、イタリア戦争が勃発。

フランス軍がローマに進軍するなか、アレクサンデル6世はアルフォンソ2世のナポリ王継承を認めて同盟を組み、オスマン帝国にまで助けを求めたが、退位するかしないかまで追い込まれることに。

3-2、アレクサンデル6世、フランス国王と交渉成立

シャルル8世は、アレクサンデル6世に対して退位を求めない代わりに、息子のチェーザレを人質に差し出し、オスマン帝国の継承者でバチカンに人質とされていたジェムを引き渡し、ローマ北西の軍港チヴィタヴェッキアのフランスへの割譲を要求、アレクサンデル6世は条件を受け入れて、ローヴェレ枢機卿とも和解したということ。

尚、その後、チェーザレはフランス軍から脱走。フランス軍はナポリ王国まで攻め込んで、アルフォンソ2世は亡命、ナポリを占領したが、アレクサンデル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結んで抵抗したために、フランス軍は撤退。

3-3、アレクサンデル6世の息子ファンが惨殺

そしてスペイン軍に捕らわれたローマの有力貴族のヴィルジニオ・オルシーニがナポリで獄死したのち、アレクサンデル6世は資産を没収したが、オルシーニ家が抵抗。アレクサンデル6世はウルビーノ公とスペインから帰った息子のガンディア公ファンの軍勢を差し向けるも、敗北。ヴェネツィアの仲介で和平協定が締結され、オルシーニ家は50000ドゥカットを支払い、没収された資産が返還され、捕虜のウルビーノ公は身代金を支払って解放。

次にアレクサンデル6世は反ボルジア派のローヴェレ枢機卿の所領地オスティアを攻めたが、ガンディア公ファンは戦果を挙げられず、スペイン王の家臣コルドバに助力を求めたところ、すぐにオスティアが陥落したため、ファンは面目を失うことに。

そして1497年6月、フアンが殺害。フアンと激しい敵対関係にあった枢機卿アスカーニオ・スフォルツァ(イル・モールの弟) やグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(ウルビーノ公)らと、チェーザレも犯人として噂されたが、捜査は打ち切られて真犯人は確定できず。アレクサンデル6世がフアンを溺愛したことに、チェーザレが嫉妬したのが原因とされているそう。

3-4、アレクサンデル6世、政略結婚などで外交政策

アレクサンデル6世は、この頃から政略結婚での外交の強化に力を入れ始め、1497年にルクレツィアとペーザロ公との結婚を無効に。また、ナポリ王フェデリーコ1世の娘と枢機卿から還俗したチェーザレとの結婚が無理と分かると、フェデリーコ1世を脅してアルフォンソ2世の3男、ビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナとルクレツィアを結婚をさせることに。

そしてチェーザレは教皇使節としてフランスへ赴いて、王妃と離婚したがっていたルイ12世と、王妃ジャンヌの結婚を無効と認めるのと引き換えにヴァレンティノ公の地位と領土を与えられ、ナヴァール公の妹と結婚、フランス軍の援軍の約束を取り付けたということ。

3-5、ボルジア家の資金調達と批判

アレクサンデル6世はチェーザレの活動資金を調達するために、資産のある貴族や聖職者たちの罪をでっち上げて財産を没収して処刑、また聖職売買なども行ったが、あまりに露骨で頻度が高いため悪評が高まったものの、ボルジア家をおそれる人々は口に出せなかったそう。

しかしドミニコ会士フィレンツェの有力者だったジロラモ・サヴォナローラが、公然と教皇及びボルジア家を批判し、公会議招集を呼びかけたということ。最初は市民がサヴォナローラを支持し、フィレンツェがフランスと同盟関係にあったため、アレクサンデル6世は強硬な態度をとれなかったが、サヴォナローラが厳格すぎたためと教会からの破門を受けて人心が離れ、1498年に処刑されたということ。勇気あるサヴォナローラは宗教改革の先駆とされているそう。

3-6、チェーザレの活躍で教皇領拡大へ

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アルトベロ・メローネ - allposters.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

アレクサンデル6世は、1499年1月、スペインとスフォルツァの反対を押し切ってフランスと同盟、ヴェネツィアも引き入れたため、1499年の秋にはルイ12世がイタリアへ進軍、スフォルツァ家をミラノから追放。

アレクサンデル6世は、当時教皇領に割拠していた小君主を一掃するために、息子のチェーザレを教皇軍の司令官に任命、傭兵とフランス軍の協力でチェーザレは次々と小君主の割拠する年を陥落させていったということ。チェーザレは1500年にはいったんローマへ戻り、1500年は聖年として多くの巡礼者がローマを訪れ贖宥状を購入、アレクサンデル6世は莫大な現金収入を得たため、再び軍を編成したチェーザレは北部イタリアへ派遣され、4月にミラノを陥落させて、ルドヴィーコ・スフォルツァは失脚。

北部イタリアでのチェーザレの華々しい活躍と専制統治の見事さはマキャヴェッリから賞賛される事に。1501年7月にローマに戻ったチェーザレはロマーニャ公となり、イタリア北部を勢力下においたルイ12世と南イタリア攻略を検討し、スペインとの間でナポリ王国分割の密約も締結。アレクサンドル6世も承認したため、フェデリーコ1世は正式に退位、フランス軍はナポリ領に侵攻、アレクサンドル6世はオルシーニ家と組んでコロンナ家の弱体化にも成功。

\次のページで「3-7、ルクレツィアの2度目の夫殺害、3度目の政略結婚」を解説!/

3-7、ルクレツィアの2度目の夫殺害、3度目の政略結婚

1500年、アレクサンデル6世の娘ルクレツィアの夫だったビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナが、おそらくチェーザレによって殺害され、1501年12月ルクレツィアはフェラーラ公の跡継ぎアルフォンソ1世デステと結婚。

そしてチェーザレは軍功だけでなく、ロマーニャ統治にも力を入れたが、成果があらわれたのは死後のことだったよう。またチェーザレは、再度フランス軍とナポリ王国に侵攻して領土分割に成功し、ローマの有力貴族のオルシーニ家とコロンナ家も制圧に成功し没落し、ローマはボルジア家の天下に。

3-8、アレクサンデル6世の最期

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ヴィルヘルム・トリュープナー - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

1503年7月、チェーザレが中部イタリアの残存勢力討伐の準備中に、アレクサンドル6世とチェーザレは熱病で重篤に。敵に飲ませるためだった毒薬の誤飲とも言われるが、当時ローマで流行したマラリア説が濃厚。そして1503年8月18日、アレクサンデル6世は77歳で死去。

病床で立ち上がれないチェーザレは、父の死の準備はしていたが、まさか自分も死にかけているときとは思わず、腹心のドン・ミケロットに父の死が公になる以前に教皇の財産を差し押さえる程度の手しか打てなかったということ。

また、翌日、アレクサンドル6世の遺体は人前で安置されたが、遺体が真夏のため腐敗が進み膨れ上がった状態を目の当たりにした市民によって、毒殺の噂が広まったとか、葬儀も兵士と司祭達の間で乱闘が起こったり、用意された棺桶が教皇の遺体を入れるには小さいものであったり、さらに教皇の遺体は粗末な防水布でまかれるという悲惨なものだったそう。

4、ボルジア家のその後

アレクサンデル6世の死後、ピウス3世が次の教皇に選出されたが、すぐに死去、チェーザレの身分保持との密約をしたローヴェレが教皇ユリウス2世に選出、しかしチェーザレは裏切られて逮捕されスペインへ送られたあと、ナヴァ―ルに脱走し、1507年、スペイン軍と交戦中に戦死。

ルクレツィアはフェラーラ公妃として摂政なども務め、残された異母弟や兄の庶子などの面倒も見たよう。

ユリウス2世のボルジア家一掃のせいでイタリアでの勢力は消滅したが、スペインではファンの未亡人がガンディア公爵家を守り、ファンの孫フランシスコ・ボルジアは第4代ガンディア公として神聖ローマ皇帝カール5世に仕えたのちに聖職者となり、第3代イエズス会総長に就任し、死後に列聖されたということ。

悪徳の限りを尽くしたローマ教皇と言われたが、時代の典型だった

アレクサンデル6世は、枢機卿からローマ教皇となった伯父の引き立てのおかげで外国人でありながらバチカンで実力をつけ、あらゆる汚い手段を用いて富を築き、買収で教皇に選出された人物。

そして息子たち親族を露骨なまでに高位につけて領地や爵位を与え、娘は政略結婚とやりたい放題となり、在位中から庶民の批判の的に。また、群雄割拠するイタリアの都市の領主たちやスペインやフランス、神聖ローマ帝国などとの外交交渉、さらにライバルのローヴェレ枢機卿ら敵も多かったため、戦争も辞さず、ローマ教皇とはいえ、精神世界の指導者というよりも教皇領の領主という世俗的な立場が濃厚。息子のチェーザレが教皇領を平定、拡大し、マキャヴェリに称賛されるほどの活躍を見せたが、傭兵を使うためと本人たちの贅沢嗜好でさらに他人の財産を強奪しまくり。

しかし世襲制ではないため、アレクサンデル6世が亡くなるとたちまちチェーザレも没落の一途をたどり、ライバルのローヴェレ枢機卿がユリウス2世としてボルジア家の悪評を盛って広めまくり悪徳の栄えとして悪名が残ることに。それが近代になると、カトリックの秩序維持に努めたとか、破産状態のバチカンの財政を建て直して、無法地帯の教皇領の治安や秩序の回復をしたとか、フランスやスペインによる侵略の危機を乗り切った功績など、政治家として再評価されているということで、あれだけの悪行が時代の典型と見直されるのもある意味すごいような気も。

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ボルジア家出身のローマ教皇「アレクサンデル6世」を歴女がわかりやすく解説

今回はアレクサンデル6世を取り上げるぞ。ボルジア家出身のローマ教皇ですが、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
BERJAYA

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、アレクサンデル6世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、アレクサンデル6世はスペインの生まれ

アレクサンデル6世は1431年1月1日にスペインのバレンシアのハティバで誕生。父はホフレ・デ・ボルハ、母はイザベルで、5人兄弟の次男。本名はロデリク・ランソルで、母方の伯父アロンソ・デ・ボルハがローマ教皇カリストゥス3世となったため、母方の苗字のボルハに改名。イタリア語読みではロドリーゴ・ボルジア。

1-2、アレクサンデル6世、伯父の引き立てで出世

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アレクサンデル6世は、ボローニャ大学で法学を学び、伯父アロンソに引き立てられて司教となったが、教皇カリストゥス3世となった伯父は、1456年に2人の甥の25歳のアレクサンデル6世と、姉カタリーナの息子ルイス・フアン・デ・ミーラを枢機卿に登用、ロドリーゴの兄ペドロ・ルイスを教会軍総司令官、スポレート公に任じるなど、民衆の怒りを買うほど露骨なスペイン系の縁故採用を行ったということ。

ネポティズム縁故主義とは
カトリックの聖職者は結婚も跡継ぎの子供も認められていないだけでなく、いかなる性的活動も慎むものとされているのですが、中世ヨーロッパはカトリック聖職者が様々な特権を持っていた時代。

特に司教や修道院長といった上級の聖職者は王侯貴族と変わらない権力を持つようになったため、親族の子供たちに様々な特典などを与えたり、実質的に後継者としたりが横行したということで、縁故主義(ネポティズム)と呼ばれるように。尚、イタリア語の「nipote」は甥や姪、孫という意味の単語だそう。

しかし公的には結婚、妻帯禁止のカトリック聖職者が密かに儲けた庶子を「甥」と偽り、ルネサンス期にはそれが公然と行われるように。その代表例がアレクサンデル6世の庶子たちだが、パウルス3世も14歳の実の孫アレッサンドロ・ファルネーゼを枢機卿に任命したなども。カトリック教会の縁故主義は1692年、教皇インノケンティウス12世が教皇勅書を発布し教皇が親族に財産、土地、利益を与えることの禁止を明文化するまで続いたそう。

1-3、アレクサンデル6世、5人の教皇に仕える

1458年6月、ナポリ王アルフォンソ5世が死亡、庶子フェルディナンドへのナポリ継承を認めなかったことで、ナポリをボルジア領にするのではないかとの噂が流れているなか、8月6日にカリストゥス3世が79歳で没。

ボルジア家に対するローマ市民の怒りが爆発して暴動が勃発、ボルジア家の教皇縁故者を始めとするスペイン人はローマを逃げ出し、アレクサンデル6世の兄ペドロ・ルイスは逃亡後急死。しかしアレクサンデル6世はローマへ引き返し、伯父カリストゥス3世の葬儀も行い、次の教皇ピウス2世を支持したため地位を保ち、教皇庁で勢力を固めたということ。

アレクサンデル6世は枢機卿として、教皇軍の指揮官、控訴院の院長、教会の長官代理に任命、教皇庁ナンバー2として、以後5人の教皇に仕えつつ、経験と富、人脈を形成することに。

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